盟約派のねらいは、1603年の同君連合成立以来のスコットランド・イングランド両国のありかたを問い直すものであった。すなわち、イングランドに吸収合併されるスコットランド(ロンドン中心の物的同君連合)ではなく、対等な関係をめざしていた。しかし対等な関係はイングランド側からすれば分不相応な要求というべきものであった。人口比で5対1、経済力ではそれ以上の開きがある両国が対等などとは、とうてい応じられないものであった。 第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。 スコットランド内はほぼ盟約派としてCFD し、祈?書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズに主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズが和議を申し込み、ベリックの和約が成立した。 和約が成立したものの、チャールズは主要な対立点である宗教問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破った。これによって、第2次主教戦争が始まった。 盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、チャールズには軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズが和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。主教戦争がひと段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな不動産投資 改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。 スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになった。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにイングランド侵攻も行った。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の関係を優位にしたいという思惑があった。しかしこれはのちにことごとく共和政府に裏切られる結果となる。 そのいっぽうで、長老制を守り抜いて(ほかの二ヶ国と比べれば)平和になったスコットランドでは、盟約軍が結集する意味が薄れてきていた。こうしたなかで盟約軍のなかから、これ以上チャールズと争う必要はないとする者たちが出てきていた。モントローズ侯を中心とする盟約軍穏健派は、スコットランドで得た権力を失うまいとする強硬派のアーガイル侯およびリーヴン伯らと対立しはじめた。モントローズ侯はチャールズのもとに赴いて外貨預金 への忠誠を誓い、派遣軍が留守の間にスコットランドを平定してしまった。盟約軍穏健派は、実質国王派となった。 しかしイングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、戻ってきた派遣軍・アーガイル侯と対立した。しかし戦闘は農繁期で、モントローズ侯のもとにはほとんど兵は集まらず勝負にならなかった。モントローズ侯は処刑され、スコットランドは束の間、アーガイル侯の執政体制となった。 なお、アーガイル侯は王政復古ののち叛徒として処刑され、モントローズ侯は英雄となった。 強硬派が勝利した盟約軍は、イングランド共和政府に長老制実施の約束を履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ共和政府、特に政府軍の反発を招き、両者の関係は険悪になってきていた。1648年盟約軍はイングランドに攻め込んだがプレストンで逆撃をこうむり、さらに1650年クロムウェルの来寇という事態を招いた。ダンバーとウースターで決定的敗北を喫し、スコットランドは共和政府に吸収合併されることになった。 ゲール人が住んでいた頃のゴールウェイイングランドが混乱していたころ、アイルランドでも1641年からカトリック勢力による武力蜂起が起こっていた。彼ら反乱勢力は国王軍とどうにか和平を結んだが、共和政イングランドによるクロムウェル遠征にあって鎮圧された。投資信託 とその幕僚たちは敗残兵や民衆の虐殺を行い、共和政政府は債務弁済のためにアイルランドの土地をイングランドのプロテスタントに分与した。このことはアイルランドの人々の間に長く禍根を残し、現在に続くアイルランド問題の源となった。 アイルランドにおける清教徒革命・内戦では、しばしば三?四の勢力で説明される。アイルランドの有産階級は、ほぼこのいずれかに分類できる。 ミア・アイリッシュ カトリックであり、アイルランドにおけるイングランド王の支配を認めない人々。ゲール人などからなる。隠遁生活を送るかカトリック国に亡命する者が多く、地主として力を持つ者は皆無だった。 オールド・イングリッシュ カトリックで国教会には従わないが、イングランド王への忠誠も併せ持つ。それ以前に植民してきたイングランド人の子孫とゲール人の双方から成る。信仰面から国教会やプロテスタンティズムを認めず、官職にありつけなかったものの、地主としては最も大きい勢力であった。 ニュー・イングリッシュ プロテスタントのイングランド人たちの商品先物取引 。それまでアイルランド総督府・議会を支配していたのみならず、地主として勢力を伸長しつつあった。イングランド内戦では国王派と議会派および多数の日和見に分かれた。 武装蜂起は1641年10月23日におこった。この蜂起の理由については、アイルランドの地主たちの債務の帳消しを狙ったものであるとする説、ニュー・イングリッシュに奪われた土地を取り戻そうと立ち上がったとする説などがある。当初アルスターで起こったこの武装蜂起の首謀者はゲール系オールド・イングリッシュであったと推定されるが、多くのオールド・イングリッシュは蜂起に否定的であった。これが債務説が支持されるゆえんであるが、とにもかくにも武装蜂起はたちまちアイルランド全土に飛び火した。これには、総督府がオールド・イングリッシュをも反乱勢力とみなして敵視したため、彼らは反乱に合流せざるを得なかったという事情があった。したがって反乱勢力といっても徹底抗戦を主張する者と、早期の和平を望む者とが混ざりあっていたのである。 やがて総督府が反攻に出ると、反乱勢力はカトリック聖職者の助けをえて評議会「アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟ともよばれる)」をつくり、組織化して対抗した。最高評議会員24名のうち5名が高位聖職者であり、その後かれらの意向が色濃く反映されてゆくことになる。 カトリック同盟は自らの名分として「神のため、王のため」立ったとした。したがって国王軍との和解・協力は既定の路線になるはずであったが、国王派の中にはカトリックを快く思わない者も少なからず存在しており、また同盟側にも国王を敵視する勢力があり、交渉は難航をきわめた。 当初チャールズ1世はカトリック同盟を敵視せざるを得なかった。国王派は国教会に与しており、カトリックを嫌う者も多かったためである。そのため一時はアイルランドに兵を差し向けたが、議会軍との戦闘が始まると、アイルランドどころではなくなり和平に傾いた。しかし和平交渉はようやく1644年に始まったものの両者の要求が紛糾して進まなかった。特に国王側はカトリック教会の財産保持を認めず返還するよう要求したが、聖職者の影響力が強いカトリック同盟には応じられるものではなかった。 交渉が加速するのは1646年3月に国王軍の拠点チェスターが陥落してからのことである。3月28日に和平条約に調印したが、この条約は遅きに失した。勝利をおさめつつある議会軍はカトリックを敵視していたからである。さらに、条約調印をめぐってカトリック同盟内で抗争がおこり、条約賛成派が投獄されるという事件も起こった。そうこうしているうちにチャールズは断頭台の露と消え、クロムウェル率いる共和政府軍が迫ってきていた。 クロムウェルがアイルランドに上陸すると、たちどころにカトリック同盟は敗勢となり、1652年には組織的抵抗が不可能な状況になっていた。このクロムウェルの征服のさなか、および彼がスコットランドに渡ったのち、酸鼻をきわめる虐殺がアイルランド各地でおこった。かつて蜂起の際にニュー・イングリッシュへの略奪・虐殺があったことは確かであるが、それを遥かに上回る規模の意趣返しが行われた。陥落した都市から小舟で逃げようとする市民を舟ごと沈めたり、敗残兵・農民が避難した教会を建物ごと焼いたりといったことが繰り返され、60万人??当時の人口の1/3??が殺されるか奴隷として売られるか、あるいは餓死したとされる。ゲール人の中心都市ゴールウェイの市民は追放され、3万人が大陸に移住してゆき、残ったのは「トーリー」とよばれる追いはぎだけであった。これがのちに、イギリス政党の名の由来となる。殺戮がここまで大規模になったのは、クロムウェル自身が「野蛮人に対する神の正当な裁き」であるとしたこともあるが、共和政府軍の兵士たちの間にもバプティズムが浸透しており、これがカトリックに対する過剰な敵意となったことが指摘されている。こうした虐殺はアイルランド人の記憶に残り、現在まで語り継がれている。 共和政府は、征服したオールド・イングリッシュらの土地をイングランド人に分配しはじめた。これにはふたつの事情があった。ひとつには兵士に支払う給料を滞納しておりアイルランドの土地をかわりに付与する旨の証書を発行していたこと、いまひとつは商人たちからアイルランドの土地を担保に投資を受けていたことである。このふたつを弁済するため、ミア・アイリッシュのみならずオールド・イングリッシュまでも追い払われ、商人や兵士に分配されていった。生活苦に陥っていた兵士の証書は軍の士官たちに安く(額面の1/4?1/5といわれる)買い集められ、士官がアイルランドの地主となるケースも多かった。