清教徒革命/ピューリタン革命(せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms)は、狭義には1641年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。革命中に起きた諸事件については清教徒革命の年表も併せて参照のこと。 ステュアート朝イングランドは国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。そのなかで王室は財政難に苦しみ、チャールズ1世は王権神授説にもとづき議会と対立し、変化に対応する能力を失っていた。内戦はアイルランドのカトリック蜂起(1641年)から始まり、翌年イングランドでも王と議会の対立から内戦がおこった。スコットランドでも主教戦争をへて1644年、盟約派と国王派の間で内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派と議会派の内戦は議会派の勝利に終わったが、議会派内でも内部対立がおこって国王処刑も行われた。内戦はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となった。この戦争を制した共和政イングランドも安定せず、大きな軍事的功績をおさめたクロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。しかし護国卿政は5年で破綻し、王政復古によって革命は失敗に終わった。かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復したが、星室庁や独自の財源を失ったFX の弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招くことになった。 清教徒革命はステュアート朝の王たちがめざしていた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。 革命の直接の原因としてチャールズ1世が政治能力に欠けていたことは確かであるが、遠因としてはエリザベス1世治世期、とくに末期に、その源泉はすでにもとめられる。農村や社会構造の変化に国家体制が対応できず、社会のひずみはしだいに大きくなっていた。かつては内乱の原因として「17世紀の危機」論争などが起こった。 農民(ヨーマン)は次第に裕福になってジェントリになってゆく者と、より貧しくなって離農する者へ二極化した。エリザベス1世は救貧法などによって社会的安定を保とうとしたものの、貧農が都市、なかんずくロンドンに集中して急激な人口増加をもたらした。この変化に宗教改革や修道院の解散も影響して、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。こうして社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成していった。 ヨーマンや小作農のなかから、しだいに広い土地を持つものが出てきて、かれらはジェントリ化していった。これには、封建領主制からブルジョワ的土地経営に様変わりしたことが原因としてあげられる。すなわち、農民は階級的支配によるFX ではなく、商契約に基づく労働としての耕作という方向に徐々に変貌してゆく。そのなかで余裕をもてた者が、農業生産性の向上もあって、その所有する土地を漸次広げていった。そしてジェントリの一角に食い込んでいったばかりでなく、富農の発言力も強まってきていた。 当時、国家財政は急激に悪化していた。収入面では余剰生産が寄生地主・富農の手にとどまって国家まで上がってこなかったこと、支出面では価格革命による物価の上昇および戦費がかさんだことがそれぞれ原因だった。代々の王は王領地を売却することで当座をしのいできたが、すでに王領地はヘンリー8世時代の半分以下にまで目減りしていた(註)。結果として王室は議会の承認する税収への依存を強める一方で、中世以来の国王大権に基づいた徴発権・後見権・関税の徴収強化に乗り出して王権に基づいた財政基盤強化にも乗り出していた。これが農民のみならず、貴族や商人階層の不満をも高める結果となった。 特にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王(ジェームズ1世)に迎えられてステュアート朝が始まると、FX の膨張に拍車がかかる様になり、国王からの議会に対する予算の要求が増加していった。これを危惧する廷臣グループから1610年に「大契約」と呼ばれる仲裁案が国王と議会に出されたものの結局は失敗に終わり、それ以後も財政悪化が益々深刻化する中でチャールズが王位を継ぐ事になったのである。 こうした情勢にも、チャールズは王権神授説を捨てず、議会に対して予算を要求するのみだった。一方で議員たちにとっての議会とは、地元の陳情を処理する場であった。両者の関係はしだいに離れてゆき、1628年6月「権利請願」提出を経て1629年、議会は解散を命じられた。 *註:エリザベス1世治世期で82万ポンド、ジェームズ1世は77万ポンド、チャールズ1世は65万ポンドの領地を売りに出して当座をしのいだ。革命中に政府が売却した残りの王領地は200万ポンド未満であったといわれるから、3人の王をあわせて半分以上となる。 チャールズ1世は親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven-years' Tyranny"(専制の11年間)とよばれる。親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建がおもな課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化をはかったが、議会の承認を経ない税ゆえに反発を招いた(註)。チャールズはジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄・耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面ではスコットランドへの祈祷書施行が行われたが、スコットランド国民盟約の反発を招き主教戦争をおこした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底したチャールズは再度議会を開かざるをえなかった。 *註 船舶税の徴収を確実なものとするために、外国為替 にあたっている州長官 (Sheriff) に歩合制報酬と、徴税を監視する没収官の派遣を導入した。無給の名誉職であった州長官にとって屈辱的なこの改革はかえって反発を招き、税収は予定額の2割に落ち込んだ。 かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯爵トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪されて処刑されている。 事態を決定的にしたのは外交など国王大権を制限して議会主権を主張する「大抗議文」が可決されたことだった(1641年11月)。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派と議会派に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を可決すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けて国王は1642年1月に議会派の中心人物の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。