軍の弱体化を狙う政府内の動きに、第五王国派や平等派、そして兵士たちは反感を募らせていき、請願や抗議行動を活発化させていった。自らの支持基盤が軍であることを知っていたクロムウェルは、こうした動きにやむなく1658年2月4日議会を解散し、軍から忠誠をとりつけた。しかし議会を解散したことによって、いままでの反乱分子だけでなく独立派なども反対勢力にまわり、軍以外に支持基盤を見出せない状況に追い込まれていた。そんな中クロムウェルがインフルエンザにかかり、1658年の彼が名声を得た日と同じ9月3日世を去った。 あとを継いだリチャード・クロムウェルは無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリヴァー・クロムウェルという核を失って、再度ひらかれた議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる議会の解散、ランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意した。オリヴァー・クロムウェルを失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこにスコットランド軍の侵攻が重なった。 チャールズ2世はこの好機を逃さず、1660年4月4日ブレダ宣言註を発して復位を促した。混乱と内紛にうんざりしていた議員や国民の圧倒多数によってこれは支持され、5月7日、宣言を受諾する使節がオランダに向けて出航していった。 註「ブレダ宣言」は以下の4項目からなり、チャールズ2世の寛容さを印象づけた。(1)革命中の行動は、議会の指名したものを除き大赦を与える。(2)宗教上の意見の相違は、議会の定めにより寛容を認める。(3)軍隊の給与は、議会に決定に従ってすみやかに支払う。(4)革命中の土地所有権の移動は、議会によって処理する。 1639年の盟約戦争・主教戦争から1651年のクロムウェルによる征圧までの内戦はスコットランド革命とよばれる。イングランドにおける急進勢力が独立派やバプテストであったのに対し、スコットランドでは長老派の中で強硬派(アーガイル侯・リーヴン伯)と穏健派(モントローズ侯など)に分かれ、強硬派は王に対する徹底抗戦とスコットランドの実効支配を目指した。いっぽう穏健派は、盟約の目的は長老制の確立のみであり、スコットランドは国王のもとに帰するべきと考えた。この違いが、内戦のみならず対イングランド外交にも影響し、強硬派の勝利・実権掌握がイングランドとの対立を招いた一因となった。これに続くクロムウェルの遠征によって、スコットランドは史上初めて直接支配を受けることになった。 スコットランドは山岳地帯や大小の島々が多く、中央集権に向かない地域であった。地方ごとに有力貴族・氏族がそれぞれの領地をおさめ、王がそれを束ねる分権的な封建制にも似た国制をとっていた。そうした地方における宗教は、平信徒の代表である長老が合議によって教会自治を行う長老制が優勢となっていた。 1637年、外為 は国教会祈祷書(儀式などの手順を指定した書)を施行した。国教会は監督制すなわち国王を頂点とするヒエラルキー構造に基づく不動産投資 な要素が強いものであり、したがってスコットランドの激しい反発を招いた。スコットランドの有力貴族らは反乱を起こし、モントローズ侯らは1638年2月「国民盟約」を成立させて長老主義のもと団結した。 盟約派のねらいは、1603年の同君連合成立以来のスコットランド・イングランド両国のありかたを問い直すものであった。すなわち、イングランドに吸収合併されるスコットランド(ロンドン中心の物的同君連合)ではなく、対等な関係をめざしていた。しかし対等な関係はイングランド側からすれば分不相応な要求というべきものであった。人口比で5対1、経済力ではそれ以上の開きがある両国が対等などとは、とうてい応じられないものであった。 第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。 スコットランド内はほぼ盟約派として団結し、祈?書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズに主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズが和議を申し込み、ベリックの和約が成立した。 和約が成立したものの、チャールズは主要な対立点である外為 問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破った。これによって、第2次主教戦争が始まった。 盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、チャールズには軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズが和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。主教戦争がひと段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな議会改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。 スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになった。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにイングランド侵攻も行った。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の関係を優位にしたいという思惑があった。しかしこれはのちにことごとく共和政府に裏切られる結果となる。 そのいっぽうで、長老制を守り抜いて(ほかの二ヶ国と比べれば)平和になったスコットランドでは、盟約軍が結集する意味が薄れてきていた。こうしたなかで盟約軍のなかから、これ以上チャールズと争う必要はないとする者たちが出てきていた。モントローズ侯を中心とする盟約軍穏健派は、スコットランドで得た権力を失うまいとする強硬派のアーガイル侯およびリーヴン伯らと対立しはじめた。モントローズ侯はチャールズのもとに赴いて国王への忠誠を誓い、派遣軍が留守の間にスコットランドを平定してしまった。盟約軍穏健派は、実質国王派となった。 しかしイングランド内戦は議会軍の勝利に終わり、戻ってきた派遣軍・アーガイル侯と対立した。しかし戦闘は農繁期で、モントローズ侯のもとにはほとんど兵は集まらず勝負にならなかった。モントローズ侯は処刑され、スコットランドは束の間、アーガイル侯の執政体制となった。 なお、アーガイル侯は王政復古ののちくりっく365 として処刑され、モントローズ侯は英雄となった。 強硬派が勝利した盟約軍は、イングランド共和政府に長老制実施の約束を履行するよう求めた。しかし独立派などのセクトが力を持つ共和政府、特に政府軍の反発を招き、両者の関係は険悪になってきていた。1648年盟約軍はイングランドに攻め込んだがプレストンで逆撃をこうむり、さらに1650年クロムウェルの来寇という事態を招いた。ダンバーとウースターで決定的敗北を喫し、スコットランドは共和政府に吸収合併されることになった。 ゲール人が住んでいた頃のゴールウェイイングランドが混乱していたころ、アイルランドでも1641年からカトリック勢力による武力蜂起が起こっていた。彼ら反乱勢力は国王軍とどうにか和平を結んだが、共和政イングランドによるクロムウェル遠征にあって鎮圧された。クロムウェルとその幕僚たちは敗残兵や民衆の虐殺を行い、共和政政府は債務弁済のためにアイルランドの土地をイングランドのプロテスタントに分与した。このことはアイルランドの人々のワラント に長く禍根を残し、現在に続くアイルランド問題の源となった。 アイルランドにおける清教徒革命・内戦では、しばしば三?四の勢力で説明される。アイルランドの有産階級は、ほぼこのいずれかに分類できる。 ミア・アイリッシュ カトリックであり、アイルランドにおけるイングランド王の支配を認めない人々。ゲール人などからなる。隠遁生活を送るかカトリック国に亡命する者が多く、地主として力を持つ者は皆無だった。 オールド・イングリッシュ カトリックで国教会には従わないが、イングランド王への忠誠も併せ持つ。それ以前に植民してきたイングランド人の子孫とゲール人の双方から成る。信仰面から国教会やプロテスタンティズムを認めず、官職にありつけなかったものの、地主としては最も大きい勢力であった。 ニュー・イングリッシュ プロテスタントのイングランド人たちの総称。それまでアイルランド総督府・議会を支配していたのみならず、地主として勢力を伸長しつつあった。イングランド内戦では国王派と議会派および多数の日和見に分かれた。 武装蜂起は1641年10月23日におこった。この蜂起の理由については、アイルランドの地主たちの債務の帳消しを狙ったものであるとする説、ニュー・イングリッシュに奪われた土地を取り戻そうと立ち上がったとする説などがある。当初アルスターで起こったこの武装蜂起の首謀者はゲール系オールド・イングリッシュであったと推定されるが、多くのオールド・イングリッシュは蜂起に否定的であった。これが債務説が支持されるゆえんであるが、とにもかくにも武装蜂起はたちまちアイルランド全土に飛び火した。これには、総督府がオールド・イングリッシュをも反乱勢力とみなして敵視したため、彼らは反乱に合流せざるを得なかったという事情があった。したがって反乱勢力といっても徹底抗戦を主張する者と、早期の和平を望む者とが混ざりあっていたのである。 やがて総督府が反攻に出ると、反乱勢力はカトリック聖職者の助けをえて評議会「アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟ともよばれる)」をつくり、組織化して対抗した。最高評議会員24名のうち5名が高位聖職者であり、その後かれらの意向が色濃く反映されてゆくことになる。 カトリック同盟は自らの名分として「神のため、王のため」立ったとした。したがって国王軍との和解・協力は既定の路線になるはずであったが、国王派の中にはカトリックを快く思わない者も少なからず存在しており、また同盟側にも国王を敵視する勢力があり、交渉は難航をきわめた。 当初チャールズ1世はカトリック同盟を敵視せざるを得なかった。国王派は国教会に与しており、カトリックを嫌う者も多かったためである。そのため一時はアイルランドに兵を差し向けたが、議会軍との戦闘が始まると、アイルランドどころではなくなり和平に傾いた。しかし和平交渉はようやく1644年に始まったものの両者の要求が紛糾して進まなかった。特に国王側はカトリック教会の財産保持を認めず返還するよう要求したが、聖職者の影響力が強いカトリック同盟には応じられるものではなかった。 交渉が加速するのは1646年3月に国王軍の拠点チェスターが陥落してからのことである。3月28日に和平条約に調印したが、この条約は遅きに失した。勝利をおさめつつある議会軍はカトリックを敵視していたからである。さらに、条約調印をめぐってカトリック同盟内で抗争がおこり、条約賛成派が投獄されるという事件も起こった。そうこうしているうちにチャールズは断頭台の露と消え、クロムウェル率いる共和政府軍が迫ってきていた。